「たんきゅうびと」はこんな人

越前国の町医・笠原良策(白翁)

2025年1月24日(金)、ある映画が全国劇場公開となりました。主人公は福井の町医・笠原良策と、その妻・千穂です。良策は未曾有の疫病・疱瘡(天然痘)から日本を救った人物で、その生き様は、私が考える「たんきゅうびと」そのものです。

中学校や高校で生徒相手に話をする際には、探究活動を通して身に付けてもらいたい姿勢やクセは3つ、すなわち「簡単にあきらめない(で、困難にぶつかってもしなやかに対応する)こと」「何でも鵜呑みにしない(で、合理的・内省的に考える)こと」「『私』を主語にして自信を持って話す(ことができるよう、『納得いくまで』準備すること)」だと伝えています。ビジネスでも話題の、Resilience, Critical Thinking, Initiativeにも通じます。良策はまさにそのような人です。

諦めなければ負けることはありません。一方で、「私、負けましたワ」を一度口にすると止まらなくなりますが、それには理由があります。その言葉は「トマト」「新聞紙」と同じで回文なのです。言霊を信じる人は特に、口にするのを避けましょう。

「たんきゅうびと」は私利私欲がない

「たんきゅうびと」は、決して、有名になることや儲けることなどを目標にはしません。ただし、結果として、多くが有名になります。良策にとっての不運は「知る人ぞ知る」に留まってしまったことですが、その責任は明らかに周囲の方にありました。良策がやろうとしていることの素晴らしさを認めたくない者達による邪魔立てが、一般民衆を「中立: 自分には何だかわからないが、凄い人らしい」の立場から、「否定: とんでもない奴らしい」の側に追いやってしまったからです。利に関しては、良策の場合、私財を投げ打ってコトにあたり、成就の後も報奨を拒否しましたから、家族には苦労をかけ通しだったはずです。

「たんきゅうびと」を支えるものは、自分が発見した社会課題に対する責任感です。良策の場合は、当初、問題に対して何も手を打てずにいる自分への「情けなさ」を燃料とし、シャネルの場合は「怒り」をエネルギーに変えました。両者とも、なぜ自分はそれを成し遂げなくてはならないのかという目的が明確で、その意思も強かったことは共通しています。目的と意思の力が、目標の具体化に大いに貢献します。目標(やるべき事柄)が具体的であれば情報収集の方向が定まります。あとは、アイデアが浮かぶまで、考えるための材料である情報の収集を続けるのみです。その際、「これも大切あれも大切。取り急ぎそれらを箱に投げ入れておこう。読むのは後からまとめてやればよい」というのは、正しい進め方ではありません。精読は後にするにせよ、自分が今手元に何を有しているかは、ざっとでも常に知っていなければなりません。その新たに得た情報が、次に必要な情報についてのガイドをするからです。その意味で、「情報の収集」と「整理・分析」をあたかも別物のように分けて捉えることは、実は、正しくありません。

「たんきゅうびと」はフレキシブル

「たんきゅうびと」は一方では頑固です。信じた道を突き進みます。突き進むので突き当たりまで到達するのも早いです。突き当たると、他人の話に耳を傾けることに抵抗が少なくなります。よって、「頑固」と「柔軟」が両立します。頑固な人は「瞬間湯沸かし器」になりがちですが、その「瞬間」が通り過ぎたあと、気付けば素直に振り返っています。それが「たんきゅうびと」です。良策にとって、山中温泉での出会いが転換点でした。

「たんきゅうびと」は政治のセンスを持つ

「たんきゅうびと」は実現のためには何でもします。当然、政治力も最大限に活用します。そこは、研究者との違いの一つとして挙げられる点かもしれません。「たんきゅうびと」は俗世に身を置きます。無菌状態の研究室に留まり一心に研究を続けているのとは、少し様子が異なります。

「たんきゅうびと」は想像力豊か、用意周到

「たんきゅうびと」はシミュレーションが得意です。計画を立て、起こり得る事態を想定し、リスクを避けることを優先して詳細なスケジュールを詰めます。映画のクライマックスともいえた「猛吹雪の下での栃ノ木峠越え」は、それに全く反する行動を取ったようにも見えますが、実はそうではありません。別の、あるリスクを避けるための準備を周到に行なった結果、出発が遅れ、そこにいつもより早い冬の訪れが重なったために起こったことでした。行くか行かないか、決断を迫られた良策に迷いはありません。迷う代わりに良策が行なったことはイマジネーションの発揮です。想像力を最大限に働かせ、どんな事態が可能性として起こり得るかに思いを馳せ、それへの事前対処を行います。想定外を減らす努力です。自然には敵いませんが、自然を甘く見たために起こり得る人災については、考えられ得る限りの知恵でバックアップを用意しておく。それは「たんきゅうびと」に大切な姿勢です。東洋は自然との共生を図り、西洋は自然を制することを考える。良策は、その中間のところに向かって歩んでいたようにも感じます。

想像力を発揮した場面として他に描かれていたのは、メスを自作したシーンです。書物で種痘のやり方を勉強し、ならば、このような形態の小刀が使いやすかろうと改良を加えます。ここにも用意周到さが表れていました。

「たんきゅうびと」の「きゅう」は

悪気があるわけではなく単なる見落としなのでしょうが、いまだに「探求」となっている表記を頻繁に見かけます。「探究」が正しいのですが、この「究」は「きわめる」の意です。「もとめる」ではありません。求めて探しまわる「探求」と、探究は異なります。

「究極」は、どちらも「きわめる」の意を持った漢字同士で出来ています。シャネル社は「究極のラグジュアリーハウス」を目標としました。シャネル氏の言葉ではなく、企業としてのシャネル社が世界共通のアイデンティティとして、「究極」を掲げたのです。しかし、具体的にこうしなさいとは言いませんでした。言いようがないからなのですが、言えない理由は、お客によって「究極」と感じるものが異なるからです。提供するのは、自分が究極と感じるものの押し付けであってはなりません。お客が究極と感じるものを、こちらが提供するのです。厳密にいえば、お客が「その場面で」究極と感じるものです。別の瞬間には、お客の感じ方が変わると考えて当然なのです。マニュアル化できるのは、こちらがこうしようと考えている範囲の具体についてだけです。「臨機応変に具体を提供しなさい」をマニュアル化するのは不可能なのです。

その特定のシーンでの正解はわかっても、それを普遍的なものとは捉えず、常にアップデートとアジャストを心がけるのも、「たんきゅうびと」になる条件です。

10歳からわかる「まとめ」

・笠原良策は「たんきゅうびと」の条件に合う人。私利私欲がなく、フレキシブル。政治センスがあり、想像力豊かで用意周到だった

・探究の「究」は、究(きわ)める、の意。探し求める「探求」とは異なる

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