「学年縦割り探究」の可能性

ホームルーム制

私の地元・福井県の若狭高校は、かつてホームルーム制を採用していました。学科や学年の枠を取り払った縦割りでグループを構成し、学生生活の中心にしていたそうです。「異質のものに対する理解と寛容」は、今も続く若狭高校の教育理念です。

今後、日本の義務教育が改善を検討すべきこととして、「学年毎の横並びでの学習が中心であること」を挙げる声が耳に入ってきます。同じ年齢の子ども達しか周りにいない学習機会の提供では、「刺激」が限定されます。また、他の子ども達の平均的なスピードにあわせるしかない学びの進度では、早い子も早くない子も、その個性が潰されてしまう可能性があります。全体的に平均を上げようとするのか、それぞれの個性を最大限に伸ばそうとするのか。両者のバランスをうまく取るようにすることが、今後ますます求められてくるでしょう。その意味で、「異質のもの」に該当する他学年との交流は、大きな役割を果たしそうです。

勢い、外部との交流を意識しがちな探究学習・活動ですが、「刺激」は学校内部にも多々あると考えられます。「学年縦割り」での取り組みを検討してみる価値はありそうです。

小規模校に合う

令和5年度の学校基本調査によると福井県の小学校の数は全190校とあります。そのうち学級数が12以下の学校は132校(約7割)です。学級数での分類トップ3は、最多が「全校で8学級」の34校、「7学級」が33校、「14学級」が16校でした。今や、各学年が1クラスもしくは2クラス程度で構成されている小学校が中心となっています。

仮に、各学年32人ずつ児童がいる学校が、各学年4人ずつが集まって縦割りチームを作ろうとするなら全8チームでき、各チーム1年生から6年生までの計24人のメンバーで構成されることになります。大谷翔平選手が唱える「野球しようぜ!」も、充分な数の途中出場選手を抱えたチーム同士で、準々決勝から大会を組むことができます。あとは、全員が楽しめるよう、低学年の児童がプレーする場合の特例ルール等を何か自分達で「探究・考案」すればよいだけです。そこには、ルールをうまく利用した作戦も生まれることでしょう。各学年が16人対16人の2チームに分かれて行う試合と、どちらが面白くなりそうでしょうか。

教えることで理解を深める

縦割りグループでの共同作業の中では、高学年の児童が低学年の児童に対して「教える」立場に立つ場面が増えてくるでしょう。うまく伝えて、自分達のように再現できるようになるまで低学年の子の側で見守ることを繰り返す中では、様々な気付きがあるはずです。わかっていたつもりでいたことが、あやふやな理解のままだったことに気付かされたり、わかってはいても他人に教えるのは難しいなぁと思い知らされたり。高学年の児童にとっては、そのような学びの場が提供されることでしょう。

一方、低学年の児童からすれば、尋ねやすいという経験をふんだんにする場になります。縦割りグループの中では、大人の先生一人に対して児童が大勢という構図ではないからです。頼りになりそうな先輩が複数いて、それぞれ特徴のある教え方をしてくれるでしょう。その中から、自分に合った伝え方をしてくれる人を選ぶことができます。事柄によって、これは6年生のAさんに聞くとわかりやすい、あれは5年生のBさんの方が詳しいなどと、そのうち主導権が先輩を選ぶ低学年の側に移ってしまっていることもあるかもしれません。そこから、「相性」があるということにも気付くでしょう。

また、この時、6年生のAさんが5年生のBさんの様子から学ぶ姿勢を見せれば、「波及」がまた一つ増えていきます。ギブアンドテイクが起こす「連鎖」が多様な様相を見せやすいのは、「異質のもの」が共存しているからこそといえます。

異質との出会い

縦割りグループによる行動がもたらす「異質との出会い」にはどんな効果が考えられるでしょうか。身体の成長の度合いの違いから、低学年の子が高学年との運動能力の差を見せつけられ愕然としたり憧れたりということは必ず起きます。心の成長の度合いの違いから、高学年の子が低学年の「わがまま」を見て我が身を振り返ることもあるでしょう。これら、「生きる力を育む」を構成する「健やかな身体」と「豊かな心」は、その成長への時間経過の影響力が比較的高いものといえます。故に、度合いの違う子が側にいることによって、それを目にしての疑似体験が出来ることには、一定の効果が期待できるのではないでしょうか。

一方、この両者に比べれば、もう一つの「確かな学力」は、いわゆる「飛び級」もあり得て、個人の興味関心の度合いによりどこまででも一人で進めていけそうなことの部類に入ります。特に今は「教材」となり得る情報に事欠くことがありません。インターネット上で探し当てることさえできれば、多くの分野で自学自習を進めることができます。時には、その情報提供者とインターネットを介して繋がり、そこで直接教えを請うこともできるのが現代です。それが行き過ぎると、勉強する場所としての学校がつまらないところに成り下がり、「学校に馴染まない子」が生まれてしまう恐れもありますから、そこでしかできない何かが学校には必要となります。

個人では持ち得ない設備が学校にあるなら、それを使って実験等をするために放課後の理科クラブを楽しみに学校に顔を出す子がいるかもしれません。それも立派な登校理由です。学校の魅力は他にも考えられますが、その多くは、集団生活に関連することの中にあると感じます。ある程度の人数が集まらないとできないプロジェクトに取り組んでみたり、将来の社会生活で必ず体験することになる会議や社会活動を、児童会・生徒会などの委員会活動で体験したりといったことです。学校生活には、いわゆる科目学習以外の要素が多々あります。その際、「異質」の存在に出会っておくことは、よい経験・よい練習になります。

1年生と6年生では、心や身体の面で差が大き過ぎるところは確かにあるでしょう。しかし、だからこそ挑戦してみる意義もあります。おそらく、誰しも人生最初に「多様性」に出くわす場面が小学校です。多様性の重視が叫ばれる昨今において、その機会を無駄にしてしまう手はないと強く感じます。

10歳からわかる「まとめ」

・かつてホームルーム制を採用し、学生生活の中心にしていた学校があった

・小規模校が増えている現在、「学年縦割り」のグループでの活動を様々に検討することには意味がありそうだ。特に、探究学習・活動には向いていると感じる

・高学年は、低学年に教えることを通して学ぶことができる。低学年は、先輩それぞれに特徴があることに気付き、その特徴を見極めながら「相性」の存在に気付くこともできる

・学校の役割は科目学習だけではない。集団生活の場としての学校だが、特に小学校は、誰しも人生最初の多様性との出合いの場ともいえる。この機会を無駄にしてしまう手はない

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